「かぐや姫の物語」を見て、大人になるってつらいな~と思った
スタジオジブリ最新作、高畑勲監督の「かぐや姫の物語」を見に行ったのですが、アニメーションとしての動きが気持ちよかったし、魅力的なキャラクターがたくさん出てきたし、「竹取物語」としての「みなさん、さようなら」的なラストでは感動はしたのですが、なんかモヤモヤしたので、ブログに書いてみようと思いました。
ネタバレはしてるので、注意してね!
楽しげだった幼少期
序盤、ジジとババや近所の子供との山の中での生活が、躍動感あふれるアニメーションで描かれる。また、CWニコルばりに「森はあたたか~い」と言わんばかりに、自然が生命力をあふれるバイブスで描かれる。また、かぐや姫は捨丸というちょっと顔の濃い地元のお兄ちゃん的な存在にどことなく好意を抱く。
この幼少期の体験がのちのち効いてくる。
モラトリアムと都の生活
ジジがかぐや姫を神的な存在だと思って、これは高貴なレディに育てなければという思いから、都に大きなお屋敷を作って移り住み、そこでの生活がはじまる。
最初は、かぐや姫も立派なお屋敷に喜び騒ぐが、ここでの生活は苦となっていきます。
まず、薄ぼんやりとしていたジジが、野心を持ち始めます。はじめは、ジジはかぐや姫を高貴なレディに育てるというかぐや姫を思ってのがんばりだったのですが、それがかぐや姫を使っての自分の自我につながり、自分の出世に気持ちがスライドをしていく。お金に困らなくと地位や名称が欲しくなるんだろうかね。なんか最近こんな話にふれたなぁ~そうだ、今やっているTVアニメ「キルアキル」の第7話「憎みきれないろくでなし」と似たような話だなっと思った次第です。
ジジの宣伝活動のおかげで、「かぐや姫って子が可愛いらしい」ってことで、男達が群がり始めます。
「となりのクラスの転校生が可愛いらしいぜ」
「マジ?見にいこ、見にいこ」
「うわ、超可愛い。おれ、告ろうかな…」
こんな感じです。
そこでとったかぐや姫の行動は、拒むことです。そして、拒めば拒むほど、ろくでもない奴があつまってきます。この辺に出てくる5人の貴公子がいるんですが、残念すぎるけど、男をちゃんととらえているなぁと関心しました。
そして、出てきたラスボスが、今で言うネオヒルズ族(古い?)みたいな俗っぽく胡散くささが最高でした。
都での生活は、男を拒み続けるというか、いろんなことを拒み続けます。形として受けいけるシーンもあるんですが、「やってなれないっす。やめーた!」とすぐ本音が出る。これはかぐや姫を取り巻く大人、特にジジや男どもの嫌悪でしょう。要は大人になるのを拒んでいるのです。大人へのなるためのモラトリアム期です。これはモラトリアムだ!ともっとも思ったのが、5人の貴族の一人で口だけが達者な男(石作皇子)がいます。
その男が、一輪の花を持って来て、こう言います。
「姫がお望みなのは物ではなく、愛するまごころなのではないか。名もない野に咲く花のように。姫、ここではないどこかへ行き、しあわせになりましょうぞ」
そして「ここではないどこかへ」を強調します。
ここで、かぐや姫はその言葉が突き刺さります。結局その男はヤリチン的な男だったので、さよなら~という結果だったのだが、ここでかぐや姫の思春期の少女性が浮き彫りになっているかと思います。
漫画「惡の華」で言う「向こう側」と同じようなものだと思います。
昔はよかったという現実逃避
次第に、かぐや姫は病んでいき、昔を持ち出して現実逃避をしていきます。
庭に昔住んでいた山の中の風景を再現したり、自然(山の中の生活をつながる?)を求めに花見などに行く。花見のシーンで、赤ん坊とぶつかりその母に「申し訳ございませんでした」と土下座されて、かぐや姫が一気に落ちるシーンがある。かぐや姫の心情としては、せっかく現実逃避をしていたのに、一気に現実を見せ付けられ、落ちたわ~ということではないだろうか。
現実逃避がもっともあらわだったのが、山の中の生活で好意をいだいていたお兄ちゃん、捨丸に会いに行くシーンだ。そのシーンは、クロニクルかよ!って突っ込みをいれたくなるほどに、大スペクタクルで描く。抑圧されていた感情が一気に開放されて、清清しいシーンだが、本当にこれでよかったの!?と思う。
捨丸はあまりにも簡単に、かぐや姫の好意に応じてしまうのだ。そして、大スペクタクルを終えると、捨丸が寝ていて、奥さん(キャラクターとしてなりたっていない書き込み具合、いじわるだなぁと思った)と子供がくる。捨丸は「夢か…」とつぶやく。これは、捨丸にとっても、ひと時の現実逃避だったのだ。切ねえ。
そして、ラストにかぐや姫は、たった一回だけ現実に絶望してしまったせいで、月の使者達に連れて行かれて映画を終える。(このシーン狂っていておもしろかったっす)
かぐや姫はこれでよかったの!?
最後に先日発売した渋谷直角さんの「リラックスボーイ」という漫画があるのですが(この漫画とてもすばらしい)、その「リラックスボーイ」のアカウントのつぶやきが映画を見る前からずっと気になっていて、どういうことだろう…と考えてました。
先日観た高畑勲監督の『かぐや姫の物語』に、『RELAXBOY』と重なる何かを見ました。勲と直角は同じこと言いてえんじゃねえかとーーー。『RELAXBOY』完全版は、本日発売です。 pic.twitter.com/Vad2WpRiGa
— RELAXBOY_発売即重版す! (@relaxboy2013) 2013, 12月 9
両方とも自我と現実の折り合いの話なので、いろいろと被るような要素があったのですが、もっとも比較しておもしろいと思ったのが、リラックスボーイのラストと捨丸と2度目の再開のシーンです。
「かぐや姫の物語」では、上記のとおり、一夜の過ちみたいに、お互いの一瞬の現実逃避で終わってしまう。
「リラックスボーイ」のラストでは、周りの人間が大人になってしまい、過去の自分自身を否定し、主人公にはおまえの価値感は古い!時代に合わせなきゃ!と言われ、落ち込む。そこで自立して人間として魅力的になった元彼女に合い、交際を申し込もうとすると…結婚を報告される。そして、主人公に対してリスペクトをして、等身大の視点で励ます。あなたは大丈夫。自身持ってと。
捨丸とかぐや姫も、昔は昔で、今に対して肯定するような再会を果たせば、「おう、お互いがんばろうじゃないか!」という別れになったのではないかと思いました。
もちろん、竹取物語の話をディスってんじゃなくて…自分の中の理想、夢の話です。そういうのが大人だと思ってます。
ってか昔はよかったぁ~的話は現実逃避って言い切っちゃうのは冷たすぎるって思うけど…映画を見てそう感じちゃったんですから、しょうがない。
とりあえず、青春モノが好きな自分にとっては、ビシビシくる映画でした。