先日発売された幸村誠先生の「ヴィンランド・サガ」14巻で奴隷編が完結した。「奴隷編」は、とても大人な内容でいろいろ考えさせられました。そして、結末にあたるトルフィンとクヌート王の和平交渉があまりにも成熟していて、味わい深かったのでブログに書こうと思った。
結論は逃げる
ケティル農場に出会った人達のため、トルフィンはかつては、近衛をしていたクヌートに対して和平交渉をする。
罪を犯し続けるヴァイキングを人間の業の象徴として、そんなヴァイキングを救うことが、「この地上に楽土を作る」ことにつながる。だからこそ力が必要だと考えるクヌート。
そんなクヌートに対して、トルフィンは「逃げる」と回答をする。トルフィンはすべての暴力から距離を置くことによって、とりあえずの楽土につながると考えている。
そんなトルフィンに対して、いよいよクヌートは噴出してしまう。このシーンがなんとも天晴れだった。
方法論は違えど、目指すものは一緒であった二人。いい意味で期待を裏切った奴隷編はラストを迎えた。
逃げるということは良き事?
一般的には、逃げるということがカッコ悪いこと、滑稽な事と語られがちだ。例えば、ワンピースでは、ウソップが逃げることをやめ、格上の敵との対峙を決断することに、男になったということが描かれている。もしくはヤンキー漫画でよくあるのが、ケンカがさほど強くない登場人物が、格上との敵に対して殴られて殴られても、立ち向かうことが美学として語られがちだと思う。
果たして、逃げることは本当に、ダメなことなのか。自分は、ここに何かしらプライドとかその手の自意識を感じる。
以前、タマフルで大林宣彦監督のインタビューを聴いたとき、戦争について話していただのだが、個人的に考えて自分の常識を信じろ!大枠の正義疑え!みたいなことを言っていて、なるほどを思ったことがあった。
正義というのは、勝者しか得ることができない。争いごとがあるときは、必ず争っているもの同士、互い互いに正義をもっているのだ。したがって勝利したほうが正義なのだ。だからこそ、常識で考えれば正義のための暴力はおかしい。ここは引いてみますかね!という判断は、暴力を生まないし、ちょっと大人だと思うのです。
幸村誠先生のメッセージ
そんな自分に「ヴィンランド・サガ」14巻のあとがきが、とてもしっくりきた。
中学生のとき、最寄り駅の呑み屋街で不良に絡まれたとき、自転車をダッシュでこいで逃げた自分。二十歳そこそこのとき、朝まで呑み続け、呑み屋から出たときに、駅前で叫んでいるヤンキーと仲間が喧嘩をし始めて、逃げた自分。とにかくとにかく暴力から逃続けた自分は、周りから根性なしと罵られ、男らしくないなぁ~とコンプレックスに感じていたことも…しかし逃げることは、間違っていなかったと自己肯定しつつ、「戦う、逃げる」ではなく「逃げる、戦う」ということを、「ヴィンランド・サガ」から学んだ教訓として、今後もとにかくまずは、逃げ続けようと思いました。